愛知県名古屋市から直線距離にして約18km離れた場所に位置する江南市。
春には市のシンボルである藤の花が見ごろを迎え、名所である曼陀羅寺公園には、毎年多くの観光客で賑わう。
その藤の名所から車で約5分の場所に店舗を構えるのは「靴磨屋T.A.N.S.」。
サフィールフレンズでもあるシューシャイナー・稲田祐一氏が営む靴磨き専門店だ。
「TAKE A NEW STEP(新しい一歩を踏み出す)」の略を屋号とした稲田氏は、これまで愛着のある地元・江南市で人々の足元を支えてきたが、店舗を構えて丸4年が経った今、屋号のごとく“新しい一歩”を踏み出しているという。
それが、稲田氏をファシリテーターとして開催される地元の学生たちに向けたワークショップだ。
体験型講座として浸透しているワークショップを、なぜ靴磨き屋を生業としている稲田氏が始めようと思ったのだろうか。
「大前提として、靴磨きを特別なことではなく、“一つのマナーとして定着させてあげたい”という想いがありました。
靴磨き屋を初めて約7年間は革靴を履く大人たちへ広めたいと思ってきましたが、日々に追われる大人に対してマナーを定着させることの難しさを感じ、それであれば、将来のある子供たちに未来の種としてこの想いを配りたいと思ったのがきっかけです。
少し靴磨きを齧ったことのある社会人よりも、何も知らない学生たちに浸透させる方が実は簡単。
彼らが就職する前に、“靴が汚いとやばいぞ”と、靴磨きの大切さを知ってもらえるきっかけに僕がなれたら嬉しいですね。」
3月上旬、靴磨屋T.A.N.S.を訪ねると、普段の客層とは明らかに異なる若者の姿が。
江南市のお隣の町・扶桑町にある誠信高等学校の2年生2名が、インターンシップで稲田氏の元を訪れていたのだ。
学生が実際にリアルな就業体験をすることで、自らの将来の夢に一歩近づく機会を与え、就職活動の精度を高めることにも繋がるインターンシップ。
本校でも、警察署、市役所、工場、フィットネスクラブなど様々な業種が選択肢にあったが、訪れた2人は「面白そうだったから」と、一風変わった靴磨き屋を選んだ。
靴磨屋T.A.N.S.を希望した生徒は彼らの他にも多数いたが、中でも靴磨きや自営業に興味のある2人が抜擢されたという。
「興味のない人にあれこれ教えるのは押し付けになる。
知りたいと思う人へ届けて伝わればいいと思っているので、靴磨きに興味のある子が来てくれて良かったです。」
2日間のインターンシップでは、まず靴磨きの基本を伝えることからスタートした。
なぜ靴磨きが必要なのかを伝授しながら、話は自身の学生時代に遡り、社会人になってから抱いた違和感が、インターンシップで学生を迎え入れることを決めた大きなきっかけとなっていることを明かした。
「学生時代は校則でダメだと言われたことが、卒業した途端に知らないことがダメになる違和感を誰しもが抱いたことがあるはずです。
学校では教科書通りのマナーしか教えてくれない。例えば、就職活動で履く革靴はストレートチップが良いのかどうか、リクルートスーツの着こなしは何が正解なのか、社会人として知っておくべきマナーは、新入社員として入社したあとに先輩から教わることが多い。
それでは、面接時点で入社できる可能性を下げているのではないか?と疑問が湧いたんです。
妻から、高校時代に『化粧をするな』と教師に叱られたのに、社会に出たら『最低限の化粧はしろ』と先輩に叱られたけど、その最低限の化粧の度合いが分からなかったという話を聞いて、僕が抱いていた違和感はみんなも同じように感じた過去があるんだと気づきました。
学生は大人と接する機会が少ないから学ぶ場もない。学校の先生たちは自分が体験しているわけではないから、教えられることにも限界がある。
だったら生業にしている自分が、将来の役に立つのであれば一役買いたいと思った。
僕は一般的な考え方と少し違うかもしれないけど、知りたいと思う人がいれば、求めていることに応えてあげたいというスタンスなので、この活動を始めました。」
参加した2人の興味は、靴磨きの他に、個人事業主として成功する秘訣にまで膨らんだ。
昨今、各所が発表している“高校生の将来の夢ランキング”では、YouTuberやゲームクリエイターなどのクリエイティブ職や、社長などの会社経営者・起業家が上位にランクインしている一方で、看護師や地方公務員など、意外と堅実志向の学生も多い。
2人はどんな将来を思い描いているのだろうか。
「将来の目標はまだ決まっていないです。なんとなく興味があるのは、アパレル、美容師、飲食店とか。こぢんまりとしたカフェもやってみたい。
でも、人の下に就くのが嫌だし、楽しくないことはやりたくないから自分で開業したいと思っています。
お金持ちになりたいとは思わなくて、ある程度生活ができるくらい稼げたらいいかな。」
彼らの言葉に、一定数の大人は“最近の若者だな”と思ってしまうのではないだろうか。
だが、稲田氏は「やりたいことをやれば良いよ」と真っ直ぐな目線を向けて答える。
「フリーターでもバイトでも良いから、楽しいと思えることをたくさん経験して、やりたいことを一つに絞らず、どんどんやってほしいです。
アパレルであれば、繊維工場とかバイヤーとか色々な方向性がある。やっていくうちにやりたいことが変わることもあるから、その中からやりたいことを見つければ良いと思います。
僕のモットーは、“借金と犯罪さえしなければ、いくらでもやり直せる”なので(笑)。
仕事なんていうものは、人生を楽しむためのツール。
嫌々やって金を貰っても何も得ることがないし、楽しいことの方が身に付いて人生のためになる。金を選ぶか、自分のやりたいことを選ぶかなら、絶対に自分のやりたいことを選んだ方が良い。
ちなみに僕は、今やっていることを“自分がやりたいことはコレだ”と100%言い切れます。」
そんな稲田氏が、彼らと同じ年齢の頃はどんな夢を抱いていたのか。
「夢は一切ありませんでした。高校・大学への進学は、父に『お前みたいなのがいきなり社会に出ても潰れるだけだから、7年間リハビリしてこい!』と言われたのがきっかけなので、ちゃんと親の言いつけを守り、7年間全力で遊びました(笑)。
社会人を6年経験したのち、“どうせやるなら自分の好きなことを仕事にしたい”という目的を見つけ、独立して会社を立ち上げたのが経緯です。
僕は32歳でやっと大人になったので、実はまだ7歳なんです(笑)。だから、高校生の彼らはまだ始まってもいない。
何かに失敗して『お前は終わっている』って言われても、『始まってもいないから終わっていません』って答えればいい。これは使える言い訳だから覚えておいてください(笑)。」
肝心の靴磨き体験は、彼らが高校に入学してから2年間履き続けている通学用のローファーに、サフィール製品を使ってベーシックケアを施した。
汚れ落としから靴クリームの塗布まで、プロの靴磨きを初めて目の当たりにし、過去一度も磨いたことのなかったローファーは、ものの10分ほどであっという間に輝きを取り戻した。
「学校で一番綺麗になりました!」と喜びながら、さっそく履いてみせる彼らに、「靴磨き屋はマイナスをプラスにする仕事。汚れた靴がピカピカになると、皆さん嬉しそうに『また長く履ける、ありがとう』と言ってくれる。靴磨き職人にとって、その言葉が一番の幸せです。」と、稲田氏は笑みを浮かべる。
稲田氏の靴磨きに捧げる想いは、しっかりと未来を見据えている。
「事業としての未来は、高齢化していく日本で靴磨きを必要とする人が減少することを見据え、分母の確保をしていかなければいけないと思っています。
“靴磨きが当たり前のマナーになる活動”をこれからもしていかなければ、将来の靴磨き職人もお客さんも増えない。
髪の毛を切るように、ネイルに行くように、化粧をするように、靴磨きが当たり前のマナーになって、僕1人じゃ手一杯の状況になれば、中学や高校に直接弟子のリクルートに行くつもりでいますよ(笑)。
将来、靴磨き屋がもっと増えてほしいです。そのためには、靴磨き職人という職業がカッコよくあることが大事。
“職人”という呼び方から“アーティスト”という存在への昇華が、その目標を後押しすると思っています。
今後は、大学の就活生や、婚活しているメンズたちに向けたワークショップも開催したいと考えています。」
そんな稲田氏の想いを、学生たちはどう受け止めたのか。
2日間のインターンシップを終え、2人がどんなことを学び、気付きを得たのかを稲田氏が席を外している隙にこっそり聞いてみた。
「靴磨き屋という職業があることを知らなかったので、世の中って広いんだなと思いました。
靴の修理屋は見たことがあるけど、靴磨きをするだけの職業が単独で成り立っていることはまったく知らなかったので、将来に向けて視野が広がりました。
これまでは、なんとなくアパレルが良いなと思っていたけど、稲田さんにお話をお伺いして、アパレルにも色々な業種があるんだなと。古着のバイヤーも面白そうだなって思ったし、靴磨き屋も上位にランクインしました。
でも、ブラッシングで腕が疲れた。ギリギリ攣ってはいないけど(笑)。」
ピカピカになったローファーを履き、稲田氏に見送られながら笑顔で店舗を後にした2人。
彼らにとって、稲田氏と靴磨屋T.A.N.S.との出会いが人生のターニングポイントとして語られる日は、そう遠い未来ではないだろう。
「僕は今、幸せか?と問われたら“幸せ”と答えるけど、今以上の幸せはないか?と問われたら答えは“NO”。
自分でレールを敷いているので、自分で終電を作らない限り終わりは来ないですよね。
未来のある子たちに、靴磨きのことだけでなく、“大人とは何か”、“大人ってこんなに楽しいんだよ!”ということをトータルで教えてあげたいし、将来道に迷えば、幸せになれる方法を案内してあげたいと思っているんです。
だから、まずは自分がレールを敷いてあげて、志のある後継者が現れたらミニマムなパックを渡してあげてもいいと思っています。
学生のみんなに伝えたいことは、好きなことは、とことん追求することをやめないでほしいということ。
世間が“こんなこと仕事になるのか?”って懐疑的な目で見てきても、その道のスペシャリストになれば、それは絶対に仕事になります。
何度も言いますが、人生はいくらでもやり直せる!だから、全力で好きなことを楽しんでほしいです。」
一歩先のことも不安視されるこの時代。それでも稲田氏は余裕の表情で「明日仕事がなくなっても、明後日には他の楽しいことを考えている自信がある。」と言い放つ。
その一言に、稲田氏と同世代の私までもが人生を楽しむ術を学べた気がして、帰路につく頃にはポジティブな感情が湧き出ていた。
インターンシップに参加した2人が今後どのような未来を歩んでいくのかは分からないが、社会人の大先輩である稲田氏の生き様は、彼らの人生設計において大きな糧となることは間違いないだろう。
靴磨きを通し、職人として、社会人として、1人の男性として、若者たちにとっての“人生を楽しむためのツール”を稲田氏が教えてくれた。
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