1302年に現在の国会にあたる三部会が開催されてから、この伝統は500年続き、かの有名なフランス革命のときには攻撃され、彫刻や家具などが壊されたりと、850年以上もの長い歳月をフランスの国民とともに歩んできた歴史の中で、栄光と悲劇を繰り返してきたノートルダム大聖堂。一時は荒廃が進み取り壊しも検討されましたが、1801年ナポレオン・ボナパルトによって救われます。1804年、この大聖堂でナポレオンの戴冠式が執り行われ、「フランス第一帝政」が幕を開けます。
1831年には、フランスの詩人で小説家のヴィクトル・ユーゴ―の小説『ノートルダム・ド・パリ』(邦題『ノートルダムのせむし男』)が出版され、その絶大な人気に後押しされる形で、1845年に修復が開始され、約20年後の1864年に修復が完了しました。
この小説の原動力となったのはユーゴーのゴシック建築に対する愛ですが、彼は同時に建築が芸術形態として理解されていないことを懸念していました。ノートルダムの未来に大きな不安を抱いていた彼は、このモニュメントに対する意識と理解を深める手段として小説を用いたといわれています。
この大聖堂修復には、30代という若さのウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクとジャン・バティスト・アントワーヌ・ラシュスの計画が採用されます。
主要なファサード(建築物の正面部分の外観)の修復と、撤去された尖塔の復元などの重要な工事が追加され、その作業は大規模なものとなりました。
志半ばで他界したラシュスの意志をも引き継いだ、ヴィオレ・ル・デュクが修復を完成させます。
現在、ノートルダム大聖堂で私たちが目にするものの大半がこの時期に修復されたものです。
第二次世界大戦のパリ解放の戦いでは、レジスタンスの本拠地になった県庁や警視庁へ、ドイツ占領軍の攻撃をかいくぐって到達し、この大聖堂に三色旗が掲げられました。解放直後の1944年8月26日には、ドゴール将軍を筆頭にシャンゼリゼから行進し、ノートルダムで勝利の讃美歌が歌われました。
パリには欠かせない観光名所は数あれど、フランス革命以前からそこにあるノートルダムは1000年近い歴史を貫き生き続け、良い事も悪い事も見守り存在しています。